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生活

2010年8月16日 (月)

近くて遠い韓国

今回の里帰りには、ASIANA航空を使ったので、帰りは韓国のINCHON空港近くのホテルに一泊し、一日だけ韓国に滞在することができた。そこで、備忘録を残しておきたい。

韓国は、行ったことがなくても九州出身の私にとっては歴史と地理的になんとなく近くに感じられる国だった。
だが、最初に韓国人と縁があったのは、ドイツ留学時代だ。

語学コースには韓国人が多く、夫婦別姓なのが羨ましかった。ベルギーでも別姓で選択性ではない。
日本では、別姓を選択性にしようとしているのだから、別姓にしたくない人はこれまでどおりどちらか一方の姓を名乗ればよいだけなのに、なぜ激しく反対するのだろう。

話 が逸れたので戻る。語学コースで、「学校で、教師が間違っても生徒は指摘してはならない」と韓国人が言ったので、「日本でもそんな無言の圧力がある」と 言ったら、アフリカやヨーロッパからの学生たちから、「そんなことはおかしい!」と一斉に抗議された。その後も韓国人たちと話し、日韓の教育はわりと似て いることがわかった。

語学コースに通っていたとき、50代のドイツ人のおじさんの住居に下宿していた。空いている二部屋を、韓国人の女子 学生と私に貸してくれ、台所とシャワー+トイレ(これが分かれていなかったのがつらかった)は共同だった(ドイツでは、学生だけでなく社会人になってもこ のような他人同士の同居は珍しくない)。時々3人で料理することもあったが、とにかく台所にはいつでもニンニクがたわわにぶらさがっており、やはり共用の 冷蔵庫には、いつでも大きなタッパーに入った自家製キムチがあった。この韓国人女性とは、とくに親しいつきあいはなかったが、それでもアジア人としてドイ ツ人よりずっと分かり合えると思えた。

それからしばらくは韓国とは縁がなかったが、この夏初めて韓国の地を訪れることができた。


空 港からすぐの高速道路沿いの街灯に、小さなソーラーパネルとかわいい風力発電のプロペラがついていたのが目に付いた。ベルギーには、時々道路沿いに「あな たが出しているスピードは時速○○km」と表示される電光板があり、これらにはたいていソーラーパネルが使われている。

空港から車で10分ほどのホテルでは空港までの送迎つきで、大きなダブルベッドが二つあるビジネスホテルよりは洒落た部屋の家族4人の料金は、ドイツのユースホステルより安いくらいで驚いた。物価は、もっと日本に近いイメージがあったからだ。

ホテルの部屋には、玄関のように靴を脱ぐ段差があってスリッパがあり、トイレ+シャワーではスリッパを履きかえるようになっていて、日本の家のようだった。

ホ テルのある町では、ホテル・レストラン街の向こうに団地が立ち並び、看板の文字が日本語で道路が左側通行だったら、日本の街といっても通用すると思えた。 もう一つ、横断歩道の信号が違った。私の故郷では信号が変わるまでに逆三角形の電光板の横線がだんだん消えていくが、INCHONでは、信号の下にあと何 秒で変わるか数字で示していた。

Lotte
のスーパー(デパートかも)が、ホテルから歩いてすぐ近くにあったので、1階の食料品売り場に 行ってみた。買い物用のカートにはコインを入れなければならないが、傍に男性店員が布を持って立っており、カートの手で持つ部分をきれいに拭いてから客に 「どうぞ」と言い、カートを返しにきた客には、自分がカートを戻しコインを出してから客に「どうぞ」と渡していた。この、私にとってはサービス過剰とも思 える潔癖さは、韓国人の国民性なのだろうか?

スーパーで苦労したのは、食品表示の数字以外何も意味がわからないことだ。ごく稀に日本語と英語が少し書いてある製品があるだけで、ほとんどアルファベットの文字がなく、ハングルだけでは全く意味がわからない。こんな経験は初めてだ。エジプトでも、欧州で訪れた国々でも、言葉はわからなくてもローマ字での表記を見れば、添加物などもだいたいの意味は予想できた。しかし、アジアの隣国では何もわからない!ショックだった!
私 は外見上韓国人に見えるらしく、よく話しかけられたが、英語は話せますか?と尋ねるしかなかった。店員さんたちにはほとんど英語が通じず、とおりがかりの 会社員ぽい男性が通訳をしてくれた。そして、一人の店員さんが最後に、日本語で「ありがとうございました!」と言ってくれた。韓国語で「ありがとう」と言えなかっ た私は、韓国語の挨拶すら学ばなかった自分の怠慢をすごく恥じた。

レストラン街では、入り口の外に生簀がある店が圧倒的に多かった。メ ニューには英語と日本語が載っていたが、韓国語しか通じないレストランで食事をした。7時前で客は誰も居らず、主人が生簀の中の海産物を水から出しながら メニューを指して教えてくれ、夫人はずっと空いたテーブルでニンニクの皮をむいていた。この主人は、白いご飯を4つ頼んだのに3つしか持ってこず、魚貝類 のスープを二つ頼んだら、「二つ」と指をたてながら、4つのスープ皿に入れて出してくれた。魚のグリルは大きな魚丸ごとを焼いたものですごい量だった。試 しに一皿だけ頼んで正解だった。おかげで、ご飯の量は3つで十分だった。感謝の気持ちを込めてチップをはずんだら、それまでずっと無表情でニンニクをむい ていた夫人が、はじけるような笑顔で何度も何度もお辞儀をして御礼を言ってくれた。8時すぎて店を出るころには、ほとんどのテーブルが客であふれていた。

翌 日、ベスト・サービスに選ばれたというASIANA航空で、ドイツまで飛んだ。窓際の息子に「シャッターを開けてください」と、私の前に身体を倒してきた 客室乗務員の女性がとてもニンニク臭く、私はドイツの隣室の女子学生のことを思い出した。食事(特に子ども向け!)もなかなかだったが、INCHON- Frankfurt便にアバターがなかったのはとても残念だった・・・

私は学校時代に、ほとんど近現代史を習わなかった(これは、官僚が 国を操っていることや戦後日本がアメリカの属国になったことに国民が気づかぬよう、文部省の意図的な教育政策によるものではないかと、今でも大きな疑念と 不満が残っている)。それで、ドイツでの語学学校時代に、クラスの韓国人たちから歴史の話題を出されて、一方的に非難されないようあわてて本を読んだ。日韓双方の歴史教育に偏りがあることは確かだ。ドイツとポーランドのように、共同で歴史教科書を編纂するような努力が、これからの世代のためには不可欠だと 思う。

私は、将来EUのようなアジア共同体を目指すべきだと思う。そのためには、アジアの国々で共通の歴史認識は最低限必要だ。ただし、日本が属国のままで官僚主導の政治が続く限りは実現しない。

今でも水と油のような英仏間(和解が進んだ独仏よりはるかに犬猿の仲にみえる)に、トンネルが通じているくらいだから、アジアの中でも決して不可能なことではないと思うのだが・・・


最後にこのエントリの記念に、菅首相の談話を載せておく。
歴史の負の部分を決して水に流さず次世代に引き継いでいくという努力を続けているドイツでは、好意的に報道されていた。

内閣総理大臣談話 平成二十二年八月十日

 
 本年は、日韓関係にとって大きな節目の年です。
ちょうど百年前の八月、日韓併合条約が締結され、
以後三十六年に及ぶ植民地支配が始まりました。
三・一独 立運動などの激しい抵抗にも示されたとおり、
政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、
その意に反して行われた植民地支配によって、
国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました。

私は、歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。
歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める
謙虚さを持ち、自らの過ちを省みることに率直で
ありたいと思います。痛みを与えた側は忘れやすく、
与えられた側はそれを容易に忘れることは出来ない
ものです。この植民地支配がもたらした多大の損害と
苦痛に対 し、ここに改めて痛切な反省と心からの
お詫びの気持ちを表明いたします。

このような認識の下、これからの百年を見据え、
未来志向の日韓関係を構築していきます。また、
これまで行ってきたいわゆる在サハリン韓国人支援、
朝鮮半島出身者の遺骨返還支援といった人道的な協力を
今後とも誠実に実施していきます。
さらに、日本が統治していた期間に朝鮮総督府を経由して
もたらされ、日本政府が保管している朝鮮王朝儀軌等の
朝鮮半島由来の貴重な図書について、韓国の人々の期待
に応えて近くこれらをお渡ししたいと思います。

日本と韓国は、二千年来の活発な文化の交流や人の
往来を通じ、世界に誇る素晴らしい文化と伝統を深く共有
しています。さらに、今日の両国の交流は極めて重層的
かつ広範多岐にわたり、両国の国民が互いに抱く親近感と
友情はかつてないほど強くなっております。また、両国の
経済関係や人的交流の規模は国交正常 化以来飛躍的に
拡大し、互いに切磋琢磨しながら、
その結び付きは極めて強固なものとなっています。  

 日韓両国は、今この二十一世紀において、民主主義や
自由、市場経済といった価値を共有する最も重要で緊密な
隣国同士となっています。それは、二国間関係にとどまらず、
将来の東アジア共同体の構築をも念頭に置いたこの地域の
平和と安定、世界経済の成長と発展、そして、核軍縮や
気候変動、貧困や平和構築といった地球規模の課題まで、
幅広く地域と世界の平和と繁栄のために協力して
リーダーシップを発揮するパートナーの関係です。  

私は、この大きな歴史の節目に、日韓両国の絆がより深く、
より固いものとなることを強く希求するとともに、
両国間の未来をひらくために不断の努力を惜しまない決意を
表明いたします。  

 

2010年2月18日 (木)

ベルギーの列車事故の翌日の列車旅

おとといの15日、ベルギーで列車同士の衝突事故が起きました。亡くなられた18名の犠牲者の方々の御冥福をお祈りいたします。

一方の列車の機関士が赤信号を見おとしたことが原因だとされており、彼は生存しているので、いずれ本人から詳しい説明があるのではないでしょうか。もう一方の列車の機関士は命を落とされ、ご両親は「自分の息子の過失ではなかったことが唯一の慰めだ」と語っておられましたが、痛ましい限りです。

私は、一年に数えるほどしかベルギーで列車を利用しません。が、たまたまこの事故の翌日、首都ブリュッセルにでかけるのに、積雪や道の不案内のために車ではなく列車を利用したため、滅多にない体験をしましたので、備忘録として、書き留めておきたいと思います。

我が家の衛星アンテナではベルギーのテレビ番組が受信できないため、唯一のベルギーの情報源は、ラジオのドイツ語放送です。


当日の事故についてはドイツのニュース番組で知りましたが、事故の影響で翌日列車が通常通り運行するかどうかなどは、ベルギーのラジオが伝えてくれるものと思っていました。


しかし、夜の8時、9時、10時といくらラジオのドイツ語放送をつけても、カーニバルの音楽のみで、ニュースが全くありません。翌朝の5時、5時半、6時にも期待しましたが、同じくカーニバルの音楽のみでした。

やむをえず車で駅に向かうと、ちゃんと列車が停まっていたので、朝6時過ぎの最初の列車で無事出発できました。

ブリュッセルまでは、通常2時間足らずですが、この日は2時間半以上かかりました。途中から、普段は停まるはずのない小さな各駅の通勤客を乗せ始めたからです。

列車の通路はたちまち人でぎっしり埋まりました。東京では珍しくない光景ですが、欧州では大都市の一部を除いてこれほど混雑することはあまりありません。

ブリュッセルへの到着が遅れるという車内アナウンスがあったのかもしれませんが、少なくとも出発直後のワロン地域(一部ドイツ語圏ですが車掌のほとんどはドイツ語を話せずフランス語のみなので、息子に聞いてもらうしかありません)では何も言っていませんでした。フランデレン地域に入ってから何か言ったかもしれませんが、オランダ語は息子も私も聞き取れない(読めば少しはわかりますが)ので、てっきり昨日の事故のためダイヤの乱れのせいだろうと思い、列車の遅れはその日の予定に大きな影響はなかったので、それほど気にも留めませんでした。

さて、大変な思いをしたのは帰り道ですが、せっかくなので、ブリュッセル滞在記も少し書きます。


地下鉄の切符を買おうと窓口に行ったら、いきなり「コンニチハ」!と窓口のアラフォーくらいの男性が、英語でひっきりなしにしゃべり始めました。

「あなたは日本人でしょ。見ればすぐにわかります。日本語少しできます。ありがとう、さようなら、こんばんは、ごめんなさい・・・・・(あと何と言ったか忘れました)。私は日本の東京、奈良、京都、広島、宮島・・・(少なくとも20箇所くらいの場所を羅列)・・・沖縄に行きたいのです」。
「そして、・・」、片手の薬指をさわりながら「美しい日本人女性と結婚して連れて帰ってくるのが私の夢なのです!」

列車が遅れて友人との待ち合わせの時間まであまり余裕がなくなったのに、彼が今度は子どもたちに話しかけ始めたので、私は「早く夢が叶うといいですね~。ところで、家族3人分の一日券はいくらですか?」と、急いで切符を買いました。




ブリュッセルの公共交通機関は、一回だと2ユーロくらいですが、一日乗り放題だと4.5ユーロ、5人まで使えるグループ券は10ユーロなので、ドイツよりも割安です。

ちなみに、ベルギーの鉄道は12歳未満は無料です。私は、一年間有効の10回券を73ユーロで買っています。これだと、ベルギー国内を2等でどこまで乗っても片道7,3ユーロなのです。私の場合は、普通のブリュッセル往復切符を買うより5ユーロくらいお得でした。ですから、雪のための渋滞や燃料代を考えると、列車の旅のほうが安くて楽だと思ったのです。それに、環境のためにもよいし!

地下鉄に乗って、まずは子どもたちを中国人の友人に預けて彼女の子どもたちと遊ばせている間、私はポルトガル人の友人に会いました。

ポルトガル人の友人とは、13年前にノルウェーのユースホステルで同室になり、以後クリスマスにEメイルを送りあってきました。彼女がオックスフォードに住んでOXFAMでボランティアをしていたとき、私がオックスフォードシャーに住む友人を訪ねたので10年ぶりの再会を果たし、その3年後のきのうEUで働き始めた彼女と2回目の再会ができたのです。

彼女は、EUの建物を案内したいと連れて行ってくれたのですが、空港内のような手荷物検査を受け(係員は半数でよいのではと思うほど、皆退屈そう・・・)、パスポートを見せて顔写真を撮られ、写真入の名札をもらってからやっと本館に入れました。

あらゆる店や郵便局、美容室など、中には何でもあります。
ダライ・ラマが演説したときに、仕事を中断して皆が覗きに集まったという大きな議場の中をガラス越しに覗いて、カフェテリアでお茶を飲んだだけでしたが、定年までEUで働けるという誇らしい彼女が羨ましくもありました。

ポルトガル人の友人と別れたあと、中国人の友人宅で午後を過ごしたのですが、20時発の最終列車まで遊びたい子どもたちを説得し、19時発に間に合うように、友人に駅まで送ってもらいました。朝のようにまた各駅停車で時間がかかるかもしれないと思ったからです。

中央駅では、出発時刻や行き先の掲示板に、たった二つの列車の表示しかありませんでした。それで、誰もホームには降りていかず、自分が乗る列車の表示が出るまで大勢の旅行客が掲示板を見つめながら、携帯電話をかけたりしていました。


私たちが乗る予定の列車はあと15分で発車するはずなのに、表示がありません。そのうち、20分とか30分前に出発予定だった列車が何番線から出発という表示も出てきたので、かなりダイヤが乱れていることがわかりました。


ブリュッセルでは、オランダ語と英語のアナウンスもありましたが、出発時刻と行き先を告げるだけで、なぜダイヤが乱れているかという理由はなにもわかりませんでした。

いつ出るかもわからぬ表示を待って延々40分余り・・・やっと50分遅れで列車に乗れました。


やはり行きと同様、本来停まらぬ駅にもかなり停まりながら2時間余り、もうすぐ終着駅の一駅手前というところになって、フランス語のアナウンスがありました。


息子が、「何か問題が起きたから、前から2両に移るようにって言ってる」。私も問題という言葉だけはわかりました。


横になって眠っていた娘を起こし、靴をはかせて移動です。昨日の事故の映像を見たあとなので、前の車輌は避けて後ろ寄りに乗っていたため、いくつもの車輌を通り抜けて前へ前へ移動しなければなりませんでしたが、途中のある車輌の通路を歩いた時、少し斜めに傾いていたのでゾッとしました。


全員前の2車輌に移動しおわったら、終着駅の一つ前の駅に着き、かなりの人が降りました。

「やっとあと一駅!」で10分もかからないのですが、100mも進んだのかどうかというところで停まってしまいました。何のアナウンスもなく、しばらくして前方から工具箱をもった男性が3人出てきて無言で後ろに行ってしまいました。

しばらくすると、今度は後方から車掌がきて、なにやらブツブツつぶやきながら通り過ぎて行きました。一度も切符を検札しにこなかったので、車掌がいるとは思いませんでした。

乗客の誰かが、「私たち全員前の駅で降ろしたかったらしいけど、何も言わないから降りるわけがないじゃない!」と言い出しました。「何かフランス語でアナウンスがあったとしても、わからない」と、私のような人もいました。実際、ドイツ語圏にはフランス語ができない人が多く、ワロン地域には車掌のようにドイツ語ができない人が多いのです。

停まってから15分くらいして、なんと列車は後ろ向きに戻り始めたのです。
息子は、「いったいどこが問題っていうの?ちゃんと走ってるじゃない。しかも後ろ向きに!」と怒り出し、列車はさっきの駅にまた停まりました。

車掌が、「駅の前にバスが待っています」と言って、私たちは全員終着駅のひとつ前で降ろされました。


夜10時半近く、雪だらけの線路沿いを100m以上は歩かされたでしょう。地下道を上がって駅の建物の前に出ても、バスは停まっていませんでした。


周りの人たちが、携帯であちこちに電話をかけはじめました。
すぐ横に立っていた、パリから10時間かかってきたというカップルの男性のほうが、「ドイツの国境都市に住む母親に電話をかけたけど、そんなベルギーの小さな駅の名前は知らないから、今からどうやって迎えにくればいいか調べるらしい。どれだけ時間がかかるかわからない」と溜息。


少したってから駅員らしき人が「次の駅までバスで行きたい人は何人くらいいますか?」と聞きにきました。すなわち、まだバスは手配されていなかったのです。私は、次の駅に車を停めているのでなんとしてでもそこまで連れて行ってもらわねばなりません。夫は留守で迎えにきてもらえませんから。


すると、「もしかして、そこにいるのはヨーコとこどもたちじゃないの」と、前に立っていたカップルが振り返りました。暗くてかなり近づかないと顔がよく見えなかったのですが、なんと年に一回食事に招待しあう二軒隣のベルギー人夫妻でした!

「私たちイングランドからの帰りなのよ。きのうの事故でユーロスターがフランスの国境までしか走らないから、そこから乗り換え乗り換えでもう道中13時間よ。でも、あなた今日はストライキがあるって知らなかったの?とにかく帰ってこれてよかったわよ。かなりの列車が運休になったんだから・・・」

なんと、今日のダイヤの乱れは、昨日の事故が起きたのは機関士の労働条件や待遇が悪いからだと、改善を求めてストライキをしたためだったそうなのです。そして、私は「ストライキ」という言葉を、夜10時半にお隣さんの口から初めて耳にしたのでした。そして、「ストライキ」のために、私たちは目的の終着駅の一つ前の駅で降ろされたのです。列車をバックさせる時間があったらとっくに目的地に着いていたのに!


そういって話しているとすぐに、お隣さんの夫のお父さんが車で迎えに到着。夫のほうは、弟もすぐに来るからと、妻と私たちを先にお父さんの車に乗せてくれました。そして、私たちは無事に車の待つ駅に送り届けてもらえたのです。



・・・という訳で、何もなくても言語に不自由なベルギーで、普段は車で行くブリュッセルに列車で行ったばっかりに、滅多にできない体験をしましたが、最後にお隣さんに会えたのは、不幸中の幸いでした。

「ストライキ」にも関わらず働いていたおそらく労働組合の方々(お隣さん曰く)、ご苦労さまでした。でも、もう少し融通をきかせてほしかったですよ!

2009年12月 1日 (火)

ベルギーの秋

この秋は、小5の息子が「温暖化のせいなんじゃない?」というほど、こちらにしてはかなり温暖でした。12月に入っても、朝の気温がマイナスにならない暖冬のスタートです。

小1の娘の「生活ノート」を数ページ後戻りすると、「秋が来た!」という塗り絵のページがあります。

りんご、西洋梨、ベリー類や、どんぐりなどの様々な木の実・・・
太陽が弱くなる、鳥たちが群れになる、カボチャの季節・・・

日本人として意外に思ったのは・・・
提灯の季節、凧、ひまわりの花

国によって、季節の風物がこんなにも違うのですね!

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2009年11月22日 (日)

有機小豆と白玉

家族全員、和菓子も好きなので、よく小豆を煮てつぶ餡をつくります。ベルギーの田舎で暮らす以上、食べたければ自分で作るしかありません。

日本のアンパンに似たふわふわのパンは、ベルギーにも売っているので(中には何も入っていません)、それを横から切って餡を詰めて、あんぱんもどきを作ります。

バニラアイスと餡を入れたクレープにしたり、プレーンヨーグルトと餡を混ぜたり、おはぎを作ったり等など、とにかく1kg煮て冷凍しておいても、あっというまになくなります。

さて、今回は日曜日なので、子どもたちが粘土遊びのノリで白玉を作り、餡と一緒に食べました。白玉粉一袋分が、一回のおやつであっという間になくなりました。

もち米の粉は、ベルギーやドイツのアジアショップにも売っていますが、なんとなく品質に懐疑的になってしまい、日本からの移動の時に運ぶことにしています。

小豆は、ベルギーやドイツの有機食品専門店で「Organic AZUKI」500gが2ユーロ位(300円弱)で買えます。もち米と違って豆は重いので、日本から運ばずに済むのがとても助かります。それも、有機栽培ですから!

有機食品については、また改めて詳しく書きます。

2009年9月 3日 (木)

お母さんがいない!

もうじき6歳になる娘は、「こいのぼり」の歌を全部覚えたので歌っていました。そして、曰く・・・

あれ〜お母さんがいないよ、困ったね〜

そうか、きっとご飯を作ってるのよ

2009年8月10日 (月)

ベルギーのボーイスカウト・キャンプ

「息子からの手紙」の続きです。

実質8日半の強行日程にヘトヘトの息子を迎えに行ってきました。
今年は、「Star Wars」とTシャツに書いて、サーベルを工作したとか・・・やっと手紙の意味がわかりました。最後は時間がなくて書きなぐり意味不明の内容でしたから。

毎朝7時半に起こされ(前日に夜中の散歩=0時から1時半に出かけたときも)、まずは農家の裏の牧草地を2km走ってから、洗面、朝食。

息子が手紙で「食事がとても美味しい」とべた褒めの新しい食事係(23歳の青年)は、なんと手製のジャムを持参していたそうで、息子は毎朝チョコクリームには見向きもせず、「すごーく美味しいジャム」ばかりパンに塗って食べたとか。(この青年、我が家でも是非ボランティアをしていただきたい・・・)

それほど腕のいいコックさんに恵まれながら、食事を残した子は、じゃがいもの皮むきやトイレ掃除、ゴミ処理などの罰則を受けたそうです。ほとんどいつも同じ子だったというので、少食・偏食の子はこのようなキャンプは災難ですね。

食器を洗ったあとは、各自でお弁当のサンドイッチを作り出発!

後半は、キャンプ期間が5日間だけの年少グループも合流し、湖で泳いだり、いろんなゲームやスポーツをしたり、一日は欧州最大の自然動物園(檻がほとんどなく、広大な敷地を柵で囲んでいる)に行ったそうです。

夜は、キャンプファイアーが3回、バーベキューが1回。


私は小学校時代、修学旅行以外に夏にも学校から3泊くらいのキャンプに行きましたが、息子の小学校では3年生で4泊5日の臨界学校と6年生で2週間くらいのスキー学校に出かけるくらいで、ほかに泊りがけで出かける機会は、ボーイスカウトやガールスカウトのように個人個人が所属するいろんなクラブの催しに参加するしかないようです。




2009年8月 7日 (金)

雷からお臍を守った娘

雷雨の前に庭にいた娘が、得意げに話してくれました。

「わたしね、シャツ(の裾)をズボンの中にちゃんと入れたよ。だってゴロゴロ(雷のこと)が鳴ってるからお臍をとられちゃうでしょ」

娘は9月から一年生で中旬には6歳になりますが、こんな会話をいったいいつまで聞くことができるでしょうか

息子からの手紙

先週金曜日の夕方、ボーイスカウトのキャンプに出かけた息子から、手紙が届きました。

8〜10歳の少年15名くらいに、二十歳前後の青年が4名つきそっています。青年たちは、職業に就いているか大学生かですが、隔週の土曜日に3時間くらいの活動と、8月に10日間のキャンプはすべてボランティアで、いつも感謝感激です。

キャンプの参加費は実費のみで125ユーロ。お小遣いは10ユーロまで許可されています。(1ユーロは約140円)

息子の手紙には、今年も食事がおいしいと書いてありました。去年は、かかりつけの小児科医の息子が食事担当でしたが、今年は就職して遠くの町に住んでおり別のコックさんですが、皆料理が上手なのも感心します。

二日目:サッカーのあと湖で泳いで、夜キャンプファイアーをした。
三日目:およそ30kmを8時間くらいかかって歩いた。
四日目:白いTシャツに文字や模様を書いた(家に帰ってアイロンをかけてら、洗濯しても色落ちしなくなります)。そのあとサッカーをした。ぼくらのテーマは「スター・ウォーズ」(ちょっと意味不明)

ドイツとベルギーをまたがって広大な自然保護地帯があり、その中の小さな村や町には、キャンプやワンゲルの人々が大勢訪れます。

昨年は、小さな村の公民館のような建物(水道は外壁に一箇所だけで、洗面も食器洗いもそこだけでした。すぐ横がとてもきれいな小川で、排水はそこに流さなければ排水管がありません。でも、自然の力で浄化されているようでした)に宿泊しましたが、今年はまた別の村の一軒の農家で、納屋を改築したような3階建ての小屋でした。子どもたちは、窓が一つしかない3階に寝袋を敷き(半数以上は折りたたみベッドや空気を入れるマットレスを持参)、この数日の猛暑で眠れたかどうか気になります。息子の手紙には、咳が出る以外は元気だと書いてあったし・・・。

ともあれ、日曜日のお昼に迎えに行って、後半の日々の話を聞くのが楽しみです。

2009年7月24日 (金)

牛乳アレルギーの人には「駱駝乳」を!

ドイツの公共ラジオ「環境と消費者」で、チラッと聞きました。

でも、駱駝乳を流通させるのは、牛乳ほど楽ではなさそうですね〜。

2009年7月17日 (金)

血液型と食べ物の嗜好

ドイツ人の友人とレストランで食事をしていたら、唐突に「血液型は何型?」と尋ねられました。

ドイツでは自分の血液型も知らない人が多く、ましてや「日本では性格診断に使われる」などと言ったものなら奇異の目でみられるのが落ちだと、長年の経験からドイツ人相手には血液型の話題は出さないことにしていたので、びっくり仰天でした。

「あててみてよ」と言うと、なんとどんな食べ物を特に好んでたべるかと聞かれたのです。彼女が読んだ本によると、血液型によって「何を食べたら特に新陳代謝がよくなるか」が決まっているので、何を好み、何を避けて食べるかを知ると血液型がわかるとか・・・。だから、A型の彼女とB型の夫は食べ物の嗜好が違うと言うのです。

しかし、私にはあまり説得力はありませんでした。我が家の血液型は彼女夫婦と逆のパターンですが、夫は納豆以外なら何でも好んで食べるし、私はある種のチーズ以外は何でも食べます。息子はB型で娘はA型ですが、二人の間に食べ物の嗜好の違いは見出せずとにかく好き嫌いなく何でも食べます。甘いお菓子がすきなのも共通しています。

それで、私は彼女に私の血液型を推定する材料を提供することができませんでした。

彼女は、自分の二人の子どもの血液型を知りません。彼女自身は、献血をしたから知っているのです。

私はベルギーと日本で出産しましたが、どちらも出生時に血液型を教えてもらえました。ドイツでは、教えてもらえなかったそうです。

ドイツは、まだまだ血液型後進国のようです。