ベルギーの難民・亡命者
昨日の日曜日は小学校の学校祭でした。内容は昨年と同じなのでこちらをどうぞ。http://myhome.cururu.jp/nachhaltig/blog/article/21002069305
保護者は通常、現場で給仕やゲームの指導などのボランティアをするか、ケーキなどを寄付するか(両方してもよい)ですが、私は予め時間の都合がわからなかったので、ケーキを焼いて持って行きました。
ちょうど、子どもたちが校庭でゲームをしていたとき、息子のクラスメートだったロシア人の家族にばったり会いました。息子同士が仲がよく、下の娘の年齢も同じなので、時々一緒に遊ばせていたのですが、昨年隣町に引っ越してしまい、しばらく電話がなくて連絡も途絶えていたのです。
この家族は、難民・亡命申請をしてから七年間も待ってやっと認定され、仕事を探したりベルギー国外に自由に出かけたりすることができるようになりました。このロシア人の母親Eさんは、実の母親(子供たちの祖母)が車で20分くらいのドイツ側に住んでいるのですが、Eさん家族はドイツに行くことができなかったので、母親がいつも来ていました。また、Eさんの兄はフランスに住んでいるのですが、兄もフランスから出ることができず、昨年やっと7年ぶりに会うことができたそうです。車で5~6時間の距離なのに、それほど長い間兄妹が会うことができなかったなんて、想像しただけでも辛くなります。
Eさんの家族のように、難民・亡命申請が認定されたらすぐに引っ越す家族は少なくありません。小学校の裏に住んでいたコソボアルバニア人の家族も、7年間待って認定され他所の町に引っ越していきました。この家族の3人の子どもたちは皆ベルギーで生まれたのです。
ベルギーが社会福祉国家ということは何度もふれてきましたが、亡命申請中の外国人たちは、生活保護を受けながらも皆学校や買い物に便利な場所の住居(決して狭くはありません)に住み、我が家よりもはるかに新型のテレビやPCなどを備え、車もたいてい1台は所有し、子どもも二人とか三人とか生んでいるので、社会の懐の深さや人権保護の徹底に驚くばかりでした。
それでも、同じロシア人でありながら2年しか待たなくてすむ人や8年待ってもまだ認定されない人など様々です。幼稚園で知り合ったロシア人の家族は後者で、小学校6年生の長男は修学旅行のようなイタリアへのスキー学校に行くことができず、10日間も一人ぼっちで学校で補習を受けてとても可哀相でした。
民族紛争や戦争の終わりは見えず、気候変動による難民もこれから増えることでしょう。以前国会議員のメルマガで読んだのですが、日本の実態は目を覆うようなものでした。国民自身がどのような難民・亡命者政策をのぞむのかをはっきりさせて、希望する政策を掲げる政党を選挙で選ぶ必要があると痛感しています。
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